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この頃、武帝は年明けから呉を攻めることを考えていたが、杜預は次のように奏上した。  「呉は攻め上ってくる気配がありません。つまり、計略に窮し、力も不足しているということです。この期を逃せば、無駄に歳月を重ねることになります。後回しにした挙句、いざ征討という際に時と人を得ない状況に陥る方が、私には恐ろしく思えます。今、国内は一つにまとまって安定しており、負ける要素はありません。あとは、陛下のお心次第なのです」。また、その月の中旬、再び上奏した。「羊?の意見と他の廷臣達の意見が合わず、異論が多く出されたのは、陛下が羊?と白昼に論ぜず、密かに計略を共にしておられたからです。この(呉征伐という)挙は、十中八九、我が方に利があります。朝臣たちは、陛下の恩愛を恃んで(呉という敵を放置しておく)後難を考慮しておらず、故に自分たちと異なる意見を軽んじるのです。秋よりこの方、討呉の気運は頗る高まっております。この状態で討伐を中止すれば、かえって孫晧は晋の勢いを恐れ、計略を巡らせるかもしれません。遷都の上で江南の諸城を修復させ、人を奥地に移住させてしまえば、日経225 を攻めることも出来ず、略取すべき場所もなくなります。そうなってからでは、討呉の計略は及ばなくなってしまいます。」 この上奏が届いたとき、武帝は張華と碁を打っていたが、そのCFD を読んだ張華は言った。「今、国はよく治まっており、陛下が命令なされば一に伝わります。孫晧は驕慢にして残虐であり、賢臣能吏を殺しておりますから、呉を討てば労せずして平定できましょう」そこで、武帝は討伐を許可した。 太康元年正月、杜預は総司令官として、胡奮らと共に遂に呉討伐に乗り出した。本隊は江陵へ進軍し、また参軍たちを江西へ派遣して、その優れた戦略でもって周辺の城邑を次々に制圧していった。また、牙門将の周旨らに命じて楽郷城を急襲させ、旗指物を多く張り、巴山で盛大に篝火を焚かせた。このため呉軍の士気は大きくくじかれ、呉の都督であった孫?は、督将の伍延に宛てた手紙の中で「北来の諸軍、乃ち江を飛渡するなり」と記すほどであった。孫?は出撃したものの、王濬によって大敗を喫して帰還した。このとき、周旨の軍勢は呉軍に紛れ込んで楽郷城へ侵入し、そのまま孫?の幕舎を襲い、生捕りにした。一方、江陵へ進軍した杜預は、伍延の佯降を見抜いて、これを打ち破っていた。こうして長江上流は平定され、?水・湘水以南の広州や交州に至るまで、呉の州郡は皆、帰属を願い出た。呉の都督や監軍で、生け捕られたり斬られた者は14人、牙門や郡太守では120人あまりに及んだ。江北に軍を駐屯させ、南郡を中心として各地に長吏を置いたため、荊州では治安が保たれた。 建業の間近に迫ったとき、軍議では「FX は温暖になり、長雨の降る時期でもありますから、疫病がはやるでしょう。冬を待って、再び攻め入るべきです」との意見が出された。杜預は答えた。「楽毅は済水の一戦で燕を斉に比肩させた。今、兵威は振興し、譬えるなら竹を割くようなものだ(譬えるに破竹の如し)。数節(=15日を一節と数えることと、竹の節をかける)も刀を入れれば、後は手を使うだけでよい。」  こうして進軍は継続され、呉帝・孫晧は間もなく降伏した。この逸話が、のちに『破竹の勢い』という故事成語となった。 武功の名高い杜預だが、彼自身は馬に乗ることができず、弓射も不得意であった。そのため、軍事を任せられると、居ながらにして将卒を率いたという。 なお『晋書』には次のような話を載せる。江陵の守備側が、杜預の頸に瘤があったことから、犬の頸に瘤に見立てた瓢をくくりつけたり、木の瘤を「杜預頸」と称してからかった。杜預は城を攻め落とすと、その住民を皆殺しにしたという。しかし、「実際の江陵は呉有数の大都市であり、これが後に建業を挟撃する拠点となったこと」「遠征先において、制圧する相手の不在が補給の壟断につながることを指摘したのは、他ならぬ杜預自身であること」などを考慮すれば、屠城したという『晋書』の記述に疑念が残る。 左氏伝の研究 杜預は種々の外国為替 を広く修め、特に『春秋』の左氏伝を好んだ。彼は、馬の目利きに優れた王済と蓄財を好んだ和?を評して「済に馬癖有り、?に銭癖有り」と言っていたが、武帝から「そなたには何癖があるのだ」と尋ねられ、「臣には左伝癖有り」と答えたとの逸話が残る。 『春秋』の三伝のうち、『春秋左氏伝』は充分に著者左丘明の考えを究めておらず、また『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』は詭弁によって解釈を混乱させていると考えた。そこで『春秋』の微言を交錯させながら『春秋経伝集解』を書き著した。また、諸家の説を参酌考察し、それを『釈例』と名づけた。そして、『盟会図』と『春秋長暦』を書き、独自の学問を作り上げた。 なお、彼の字「元凱」とは、『春秋左氏伝』文公十八年の条にある??の八人の王子(八元)と帝?の八人の王子(八凱)に由来する。 アッティラ(Attila,ドイツ語ではエッツェル Etzel 、原語ではアキラ  406年? - 453年)はフン族の王。自らを「神の災い」と称した。大王とも呼ばれている(この場合の神とはキリスト教のことであり、キリスト教国に対して災いとなる、世界の大王を自称していた)。 433年、ローマへの侵入を繰り返していたフン族の圧力に耐えかね、西ローマ帝国がフン族にパンノニア(現在のハンガリー)を割譲。 434年、叔父の死後、兄弟ブレダとともに、フン族の王となる。 445年、ブレダを殺害し単独の王となる。東ゴート族などのゲルマン人一派を従え勢力を拡大、パンノニアに本拠を置きローマ帝国にも侵入を繰り返し、短期期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る巨大な帝国を築き上げる。 447年に東ローマ帝国に侵攻し賠償金を獲得。 451年6月20日、ローマ帝国の征服を目指しガリアのカタラウヌムで、くりっく365 の頃人質としてフン族に育てられたローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ、西ゴート連合軍と戦う。しかし、アエティウスの(フン族の戦術の裏をかく)巧みな戦術に敗れる。 452年戦略を修正し、直接西ローマ帝国に侵攻。北イタリアのミラノなどの都市を陥れ、西ローマ帝国から莫大な賠償金を手に入れる。しかし進軍を止めることなく首都ローマの征服を目指すが、教皇レオ1世の説得によって撤退したとされている。 ※実際は、フン族の兵士にマラリアが蔓延したため、といわれている。 453年、40歳のアッティラは、自らの婚礼の酒宴の席で泥酔、そのまま死亡(従来は、鼻血による窒息死とされていたが、現在では脳溢血により死亡したとされている。 アッティラには多数の妃と子があり、後継者を指名せず急死したのが災いし、帝国は後継者争いにより分裂した (フン族は遊牧民であったため、領土や国家という概念が希薄であり、現在の概念としての国家を形作る事はなかった)。 ドイツの古典文学ニーベルンゲンの歌にも登場する。