祖逖(そてき、泰始2年(266年)‐大興4年(321年))は、中国西晋末期・東晋初期の武将。字は士稚。范陽(河北省)の人。西晋滅亡後、東晋の元帝に仕え、独力で中原回復に努力して一定の成果を挙げた。 古い家柄の士大夫の子として生まれたが、幼少時は読書を嫌って任侠を好んだため兄弟の顰蹙を買ったという。しかし15歳の頃から勉学に励み、司州主簿に任官した。永嘉の乱が起こったとき、親族を連れて江東に移り、東晋の元帝に仕えて徐州刺史に任ぜられた。しかし元帝は江南経営に専念して中原回復の軍事活動には熱心でなかったので、彼は独力で中原回復を意図するようになった。豫州刺史に任ぜられた彼は後趙の石勒を討つため出陣する際、「祖逖中原を清めること能わずして復に済らば、大江の如きものあらん(祖逖不能清中原而復済者、有如大江!)」(この私祖逖は、中原を平定できないうちは、再び長江を渡ることはないであろう)と誓ったという。彼は漢(前趙)や後趙と戦ってしばしばこれを破り、黄河以南を東晋の版図におさめた。大興3年(321年)にはその功績により鎮西将軍に任ぜられたが、翌年雍丘(現在の河南省杞県)で病死した。享年56。 勇将石勒でさえ彼の武勇には恐れを抱き、幽州にある祖家の墓を整備したりして彼の意を迎えることに努めたという。 陶侃(とうかん、259年 - 334年)は、中国の西晋、東晋の武将。字は士行。?陽の人。父は呉の武将陶丹。母は湛氏。子は16人いたとされるが記録に残っているのは、陶洪、陶瞻、陶夏、陶g、陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱の9人だけである。甥に陶臻、陶輿。詩人の陶淵明は曾孫とされるが、陶淵明の祖父とされる陶茂は晋書の陶侃伝には記録されてない。 略伝 呉が晋に降伏した後、廬江の尋陽に移り住んだ。若くして父・陶丹が死に家が貧しかったが、母・湛氏は髪を売り酒肴に変えて陶侃の交際費用にあてた。范逵の推挙により廬江太守の張?に仕え、そこで名を上げ孝廉に推挙された。 孝廉に推挙された陶侃は洛陽に行き同じ江南出身の孫秀の舎人となる。また洛陽では張華、楊?、顧榮らにその才を賞賛された。その後、荊州刺史の劉弘の配下となり張昌の乱、陳敏の乱の平定に活躍した。その後母が死に喪に服す。 喪が明けると東海王・司馬越に仕え、江州刺史・華軼の下で揚武将軍になり夏口を守った。また甥の陶臻も参軍として華軼に仕えたが、華軼が瑯邪王・司馬睿(のちの東晋の元帝)が不仲なのをしり難を避けるため病気と偽り職を辞して帰った。それを知った陶侃は激怒するも結局陶臻は司馬睿の下に行き参軍になり、陶侃も奮威将軍に任命される。このことによって陶侃と華軼は不仲になった。 永嘉の乱が起こりFX が大いに乱れ、賊が荊州で暴れ始めるとその平定に尽力し、その活躍が王敦の目に留まり推挙され荊州刺史となり、杜?らの外為 での叛乱を苦難の末平定した。功を上げた陶侃は王敦に妬まれ広州刺史に左遷されるも、陶侃は慕われていたので荊州の将士たちは反発し後任の王廣の荊州入りを拒絶した。王敦は激怒し陶侃を殺そうとしたが梅陶、陳頒らの擁護によって王敦の怒りは収まり無事任地に行くことが出来た。広州に行くと王機らの叛乱を平定した。王敦が叛乱を起こすと江州刺史や湘州刺史を勤め、交州の賊を平定し功績を挙げた。王敦の叛乱後はまた荊州刺史となった。荊州の人たちはこれを喜んだという。 蘇峻が叛乱を起こすと、子の陶瞻は賊に殺されるも、盟主に推薦されると温?、?亮らと蘇峻を破り叛乱を平定し、その後も郭黙の叛乱や石勒の将軍郭敬を討ち、大将軍に任命され剣履上殿、入朝不趨、賛拝不名の特権を与えられるもこれを固辞した。 334年に荊州にて76歳で死去。 檀道済(だんどうせい、生年不明 - 436年)、FX 金郷の人。外為 から宋初頭にかけての武将である。宋の建国者である劉裕とともに戦場を渡り、第2代皇帝である少帝の後見でもあった。のちにその武名を恐れた文帝によって殺害される。 興国の元勲 404年、東晋を滅ぼして自ら皇帝を僭称していた桓玄を討伐するため、劉裕に従い決起し、大いに功績をあげている。416年には、劉裕の北伐に先方として参戦し、後秦を滅ぼした。そのときの功により、征虜将軍および琅邪内史となる。 東晋に代わり宋が建国されると、永脩県公、南?州刺史となる。422年、劉裕は、檀道済や徐羨之、傅亮、謝晦に後事を託し、死去する。第2代皇帝として少帝が即位したが、徐羨之らと共に少帝を廃し、文帝を擁立する。424年の文帝の即位に伴い、征北将軍となる。また、426年には、少帝廃立・殺害の罪を問われた謝晦を討伐し、征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史となる。なお、檀道済が江州刺史であった頃、野に下った陶潜の才能を惜しみ、仕官を勧めているが拒絶されている。 431年、檀道済は北伐を実行し、外国為替 の歴城に到達するも兵糧不足のため撤退する。やがて宋軍の最高職である司空となる。 檀道済自身、才能におぼれるところがあり、そのため、文帝としばしば対立することがあった。このため文帝が病に倒れた際、後難を怖れた文帝により殺害されることとなる。このとき捕らえられた檀道済は、文帝の目の前で頭巾を床にたたきつけ、「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだと伝えられている。 宿敵であった檀道済がFX されたことを知った北魏は、宋への侵攻を開始した。文帝は檀道済を失ったことを後悔したという。 三十六計 北魏への北伐の際、宋軍は歴城まで達するもFX 取引 となり、逃亡者や士気が衰えが出始めていた。やむなく檀道済は撤退を決定するが、宋軍の損失を最小限にとどめるための策を考案した。 枡に砂を盛って米のように見せ、また余った兵糧を地面にばら撒き、兵糧が豊富にあるかのように偽装した。これを見た北魏軍は、宋軍の兵糧が尽きていないと思い込んだ。そこで檀道済は宋軍を悠然と退却させたが、北魏軍は伏兵を懼れて追走してこなかった。 後世になり、この出来事を南斉の将軍である王敬則が、「檀公の策は数多くあるが、逃げることをもっとも得意とした」といい、「三十六計逃げるに如かず」の語源となった。 斛律光(こくりつ こう 525年 - 572年)は中国北斉の軍人。父親は斛律金。北斉の重鎮として国を支え続けていたが、後主によって粛清された。 北斉の名家、斛律氏一族の長子として生まれ、父親に従って従軍して武功を上げると僅か17歳で都督に抜擢されると数々の戦いで功績を立てる。文宣帝の頃から後主の頃まで、まさに彼が北斉を支え続けたといっても過言ではなく、娘を高氏一族に嫁がせるなど(一人は高百年、もう一人は後主)外戚として栄華を極めるが、権力の大きさ故に後主やその近臣たちに猜疑されることになる。 572年、北周の宿将である韋孝寛が「斛律光は背くだろう」という内容の歌謡を作って流布させると、後主の近臣たちはそれが謀略だと知らずに潤色して後主の耳に入れた。後主は謀反の罪を着せて斛律光を暗殺し、その一族を抹殺した。 人物 非常に剛毅な人物で、北斉の将軍という立場にありながら奢ることなく、行軍に当たっては兵舎が完成するまでは休むことなく、軍紀には厳しかったが士卒に過失があっても殺すようなことはなかったので、士卒は彼のために命を投げ出したという。このように、北斉を代表する名将であったために、敵国の北周は恐れて謀略を使ったのであり、彼が死んだことを知るやいなや武帝は大赦したと言われている。 このように軍事面では有能だったが、後主を堕落させている近臣たちを憎んでおり、事あるごとに辛く当たった。彼らも小人であるが故に斛律光のことを深く恨み、讒訴される羽目になることについての政治的配慮に欠けていたとも言える。 かつての曹操や司馬懿を例に引くまでもなく、斛律光が仕えた文宣帝も王朝の有力者という立場から帝位を簒奪したのであり、国軍を掌握する斛律光は、言い換えれば潜在的な皇位の簒奪者ともなりえる存在であった。このように、斛律光も簒奪して皇帝になれるだけの力を持っていたのだから、さほど有能とはいえない後主が恐れたことには理由があった。にもかかわらず、斛律光は後主の忌避を解くようなことはしなかった点において、その末路は政治的にある種の必然であったともいえる。