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太宗の晩年は立太子問題が発生した。当初立太子されたのは長子の李承乾であったが、太宗は魏王李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして誅殺され、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の武則天の台頭の要因となることとなった。 644年(貞観18年)、高句麗へ遠征が行われるが失敗に終わり、それから5年後の649年(貞観23年)に崩御した。 崩御後に諡号として文皇帝(ぶんこうてい)と贈られたが、674年(上元元年)、高宗により文武聖皇帝(ぶんぶせいこうてい)に改められ、更に749年(天宝8年)、玄宗により再度文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、そして754年(天宝13年)に日経225 により文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度改められている。 歴史的評価 後世、名君の中の名君と称えられた太宗であるが、その像にはかなりの粉飾が見られる。『旧唐書』の編纂に参考資料とされた太宗実録の編修をした許敬宗という人物は、賄賂によりその記録を歪曲することがあったと両唐書の許敬宗伝に書かれている。また、即位に関して兄の李建成や弟の元吉をクーデターで殺害しており、高句麗への2度の遠征に失敗している。 また太宗は、能筆家として知られ、FX にも初唐の楷書を完成させた書の大家を登用するなど書に対する関心が強かった。また書聖と謳われる王羲之の真筆に対して異常なまでの執心ぶりを見せていたことも有名である。王羲之の子孫にあたる智永という僧が持っていた「蘭亭序」の真筆を手に入れ、それを死後に昭陵に納めさせたと伝えられている。 李勣(りせき 594年? - 669年)は中国唐代の軍人。字は懋功。元の姓は徐、元の諱は世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民を避諱して李勣と改めた。李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。 出自 曹州離狐(山東省)の人。富家の出身で、投資信託 の混乱に伴い、近くで?譲が蜂起したので、17歳の徐世勣はこれに従って反乱軍に身を投じた。徐世勣は年少にもかかわらず、?譲よりも才能を発揮し、?譲軍は徐世勣の主導によって動くようになる。 その頃、李密が王世充に敗れて逃げてきたので、これを迎え入れて?譲に代わる首領として李密を押したてる。王世充の軍を奇計を用いて破り、この功績をもって李密より東海郡公とされる。また李密に対して隋の穀倉を奪って飢えた民を集めることを進言して受け入れられ、宇文化及の軍がこの食料を求めて攻撃してきたのでこれを撃退した。しかし619年に李密軍は王世充に大敗し、西で大興城(長安)を陥落させていた李淵に李密と共に降った。徐世勣を迎えた李淵はこれを大いに喜び、徐世勣を「純臣なり」と称揚し、李密の元から自らの直臣として迎え入れ、国姓の李を与えた。以後は李世勣となる。以後は唐の元で統一戦にて李淵の次子・李世民(後の太宗)の軍の中核として活躍し、竇建徳・王世充討伐に功績を挙げた。李世民が即位すると名前を李勣と改め、并州都督とされる。 左遷 しかし太宗も晩年になると李勣の才を恐れ、皇太子李治(高宗)に対して李勣が忠誠を誓うか否か心配になり、ある策謀を行った。それは李勣を畳州都督へと左遷することであった。太宗は李治に対して「もし李勣が左遷されて、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう。」と言い残して、死去した。李勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。 李治が即位して先物取引 になるとすぐに李勣は呼び戻されて中書門下三品(宰相)とされ、一躍朝廷の重鎮のひとりとなる。 終わりを全うする為に その後、高宗は武照(武則天)を新しく皇后に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の外為 な人物が長孫無忌・?遂良・于志寧であった。長孫無忌と?遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。李勣からすれば、長年粉骨砕身して仕えてきた太宗からあのような疑いを受けたことが微妙な恨みとして残ったようであり、「そちらがそのように疑うのならこちらは保身に走るしかない」と感じていたようである。 その後、長孫無忌・?遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と?遂良は南方の辺境の任地で病死した。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。666年の高句麗遠征には唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。 669年、死去。享年76。 李靖(りせい、571年 - 649年)は中国唐代の軍人で、太宗に仕えた軍人・政治家。李勣とともに初唐の名将として知られ、突厥征伐などで戦功を挙げた。字は薬師。衛公に封じられた。李靖と太宗の対話は『李衛公問対』という書物にまとめられ、兵法書として高い評価を受けている。 李世民の幕僚となる 京兆の三原の人。隋の高官の一族の出身で叔父の韓擒虎は文帝に仕えた将軍であった。科挙に合格して役人となって地方長官を務めたが、韓擒虎の影響を受けて兵法の研究に熱中したという。 煬帝の代になると天下が乱れ各地で叛乱が起きるようになったが、李靖は隋王室に対する忠誠心を失うことは無かった。直属の上司の李淵が謀反を企んでいることを知ると、江都に巡遊中の煬帝に直接知らせに行こうとしたが、李淵も計画の漏洩を警戒していたため、なかなか抜け出す隙を見出せなかった。そこで李靖は江都に移送される囚人に紛れて抜け出そうとしたが、計画は露見して李淵の下に引き出された。すぐさま処刑しようとする李淵に対して李靖は「貴公は挙兵して天下のために暴虐を除いて民を安らげて、大事を成し遂げようとしているが、なんのために私怨によって忠臣・義士を殺すのか」と問いかけた。このとき傍らにいた李世民(のちの太宗)はこれを聞いて喜び、父に李靖の助命を嘆願して以後配下加えた。 李靖は李世民の強力な幕僚として付き従い、隋が崩壊した後の統一戦争において様々な献策を行った。王世充との戦いで武功を挙げたことで李靖の武将としての名声は高まり、唐の中国統一における大きな障害であった江南の蕭銑との戦いでは全権を任されるほどであった。 突厥征伐 629年、李世民が帝位を継ぐと唐の北辺を脅かす突厥に対抗するために、50,000の兵とともに李靖を派遣した。李靖は突厥の状況を素早く把握すると配下の張公謹に軍団の指揮を預け、自らは騎兵3,000を率いて雪に埋もれた突厥の陣地を襲撃した。突厥の頡利可汗は李靖の英名を知っていたのでその突然の出現に色を失い、陣を捨てて撤退した。さらに李靖は頡利可汗の配下の康蘇密の元に使者を送って離間策を用い、さしたる損害も無く康蘇密を降伏させることにも成功する。頡利可汗はこれによって更に多くの領土を放棄して奥地へと引き込み、長安に使者を送って唐に恭順を誓う姿勢を示した。