太宗はこれに喜んで李靖を長安に呼び戻してねぎらい、あわせて李靖に突厥に対する外交を担う全権を与えた。李靖は頡利可汗の使者をもてなして降伏を受け入れるかのように見せかけながら軍備を整えると、躊躇う同僚の李勣を説得して騎兵10,000に二十日分の食料を持たせただけで突厥の本拠地に向かって出撃した。使者からの報告で油断していた突厥軍は為すすべも無く破られ、頡利可汗とその一族は捕らえられた。これによって突厥は滅亡し、以降の数十年間唐の北部国境では戦争がなかった。 吐谷渾征伐 634年、今度は西部の吐谷渾が唐に背き、使者を監禁して攻め込んできた。太宗は李靖を当代一の戦上手と思って一目置いていたが、如何せん老齢であるので別の将軍を任用しようと思っていた。これを聞いた李靖は自ら志願して吐谷渾討伐へと赴き、数万の兵を率いて五箇所から同時に侵攻した。 吐谷渾の伏允は李靖を警戒して撤退し、草地を焼き払って馬の飼料をなくす焦土戦術を取った。諸将はこれを見て進撃の難しさを知り、次の年に草が生えるのを待ってから再度進撃することを勧めた。しかし李靖は、草が生えかわるのは遊牧民族である吐谷渾にとっても有利であり、勝機があるのは敵軍が敗走に動揺している今しかないと言って追撃を指示した。 全軍は餓えに苦しみながらも進撃し、伏允は部下に殺され吐谷渾は滅びた。used trucks for sale に太宗はこの時に李靖が捕らえた伏允の嫡子を西平郡王に取り立てて祖国を復活させたため、西部国境においても長らく平和が保たれた。 晩年においても太宗の絶大な信頼は微塵も揺るがず、宰相を務めるなどして終わりを全うした。 李靖の戦術 常勝を誇った李靖の戦術の基本は、騎兵の機動力に依存した長距離奇襲戦法であった。used truck for sale の思いもよらない方角から攻め込んで混乱させ、敵が逃げる方向を正確に予測して伏兵を置き、挟撃して殲滅するという戦法によって李靖は味方の兵が敵より少ない場合でも常に勝利を収めた。その鮮やかな勝ち方から、中国では李靖をして史上最高の名将とする書籍が多い。 この戦法は、馬の運用に長けた遊牧民族との戦いにおいても有効であった。何故ならば遊牧民族の戦法は、機動力に優れた馬上から相手との距離を一定に保ちつつ弓を射掛けるというものであったため、敵陣に切り込めば案外容易く退却することが多かったからである(パルティアンショット)。とはいえ、敵の逃走する方角を正確に予測する李靖の戦略眼は同時代においては突出していたと言える。 この機動力に不用品回収 を置く李靖の兵法は『李靖兵法』などの書物にまとめられ、後世の兵法の発展に絶大な影響を与えた。中でも『李衛公問対』は武経七書の一つとしてもよく知られている。 郭子儀(かく しぎ、697年 - 781年)は中国、唐の中期の将軍。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた名臣、客家人。中国では史上屈指の名将といわれる。 出自 華州鄭県(現在の陝西省華県)の人。字は諱と同じく「子儀」。諡号は忠武。身長160cmほど。家柄はあまりよくなく、地方官僚の郭敬之の子として生まれた。 軍の中枢へ 武挙(官僚を選ぶ科挙と同じく軍隊の幹部候補を選ぶ試験)に通り、左衛長史に任ぜられた。その後、振遠軍使、天徳軍使、安北都府使兼九原太守に累進した。 再三、唐の国難を救う 粛宗の時、安史の乱を平らげて粗大ごみ を救う功を挙げ、衛尉卿、霊武郡太守、朔方節度使、関内河東副元帥に任ぜられ、汾陽王に封ぜられた。 764年、前述の安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った僕固懐恩が宦官との対立から叛乱を起こし、太原に進攻したのを撃退した。 765年、吐蕃・ウイグルの叛乱を平定し、徳宗より尚父の号を賜り、大尉・中書令に昇進した。 評価など 「中書令考二十四」を著す。 安史の乱を平定して同じく整体師 で活躍した李光弼と名を斉しくし、世に「李郭」と尊称された。寛厚な人柄で皇帝から庶民にいたるまですべての人々に敬愛されたという。また、外征からの帰還の際には皇帝が自らで迎えるなど、特別な待遇を受けていたことが史料からわかる。 旧唐書の伝には、 「権は天下を傾けるも朝(廷)は忌まず。功は一代を蓋いたるも主は疑わず。侈(贅沢)は人欲を窮(きわ)めたるも君子之を罪とせず。」 という最大級の賛辞が記されている。 郭令公と呼ばれ、used truck などの異民族からも畏敬の念を持って遇せられた。 史書に言う。「子儀は勲徳並びに高く、司徒・中書令・汾陽王と為り、関内・河東の副元帥を以って河中或は?州に鎮す。代宗之を礼重し、讒間行われず。朝政に預からずと雖も、夷夏皆其の威名に服す。唐室其の身を以って安危と為すこと殆ど三十年なり。徳宗尊んで尚父と為す。建中二年卒す。八子七壻皆顕れ、将佐の名臣たる者甚だ衆し。」(支那通史) 墓所:中華人民共和国陝西省咸陽市礼泉県 李白 李白は安史の乱では粛宗の弟の永王李?に従ったが、used trucks が叛いたためにその臣下であった李白もまた囚われの身となり、罪に服すこととなったが、郭子儀は李白の無罪を説いて李白の助命を請うた。そのため、死罪から流罪に軽減された。郭子儀は若年のころに、李白に命を救われたことがあったという。 李光弼 郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。 実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。 安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの2人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。 郭曖 - 郭子儀の六男。妻は代宗の娘。四字熟語「不痴不聾」の逸話の登場人物。「二人がけんかした際、曖が『父親が天子だからと威張るな。俺の親父はいつでも天子になれた。天子など頼まれてもならないわい』と言ったことを、妻は怒って代宗に告げたが、代宗は取り合わなかった。郭子儀は郭曖を連れて代宗に処罰を願い出たが、『《痴ならず聾ならざれば、家翁とならず》と言うではないか。夫婦喧嘩などほうっておけ』ととがめなかった。(典拠『資治通鑑』巻224)」という逸話が残っている。代宗の心の中には、唐が復興できたのは郭子儀のおかげであるという意識があったからである。 懿安郭皇后(? - 848年) - 郭曖の娘。夫は広陵王李純。穆宗李恒の母。 郭崇韜(? - 926年) - 字は安時。代州雁門の人。郭子儀の後裔と称した。李克用、李存勗父子に仕えて中門使に至った。李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使となるなど重用された。後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となった。位は人臣を極めた。権勢を奪われるのをおそれて、魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏した。「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥した。同光三年(925年)、魏王李継岌に従って蜀を攻め、東北面行営都招討使をつとめた。蜀が平定されると、李継岌の猜疑を受けた。また、同時に宦官に誣告されたため、それを信じた李存勗は激怒して宦官馬彦珪を蜀に下し、郭崇韜・廷晦の父子を成都で斬らせた。政戦両略の才あり、王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来といわれたが、最期は異なった。